2世紀末、中国が混乱におちいると、遼東(リョウトウ)方面は公孫(コウソン)氏が勢力を持つようになります。3世紀はじめ故国川王(コグクチョンワン)が死ぬと、その子の間で王位継承をめぐって対立が起こりました。民意を受けて弟の伊夷模(イイモ)山上王(サンサンワン))が即位しましたが、兄の拔奇(バッキ)は公孫氏を頼って抵抗し建国以来高句麗の都だった卒本(チョルボン)を制圧しました。伊夷模はかねてよりの根拠地のひとつである集安(シュウアン)に移り、そこに本拠をおきました。
 集安が王都になったのはこの時からでこのあと集安の町は大きく発展して、広開土王(クァンゲドワン)の時代に受け継がれました。

彼らを憤慨する民の声が、故国川王の耳にまで聞こえてきました。王の怒りを知り、王后の親戚たちは反乱を企てましたが、王は王宮を攻撃する反乱軍を一人残らず処刑しました。

賑貸法(シンタイホウ)

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故国川王(コグクチョンワン)乙巴素(ウルパソ)に今でいう国務総理に当たる最高の地位を与えました。彼は王の想いを受け入れました。
乙巴素は人の能力才能をよく見極め、適した地位につかせ、よく仕事をした者には褒美を与え励まし、仕事を怠ける者には厳しい処分をしました。正義がよみがえり秩序を取り戻した社会で、人々は平和に暮らし始めました。

しかし194年7月に霜が降り、農作物がみな枯れてしまうなどの大きな被害が出ました。仕事を失い、食べるものも無く、多くの人が死んでいきました。乙巴素(ウルパソ)は、自力では生きていけない人々をまず救護してから、新しい制度を王に提案しました。『毎年、春から秋の収穫までの期間、民は食べるものも無く飢えに苦しみます。この時期に国の穀物を民に分け与え、取り入れの後、10月に返済させるという制度を作ってはいかがでしょう。』これが、朝鮮半島の歴史上初めて実施された農民救済制度の賑貸法(シンタイホウ)です。

 5部族を統合した高句麗では、暮らし向きがよくなりました。しかしその恩恵は一部の者のみが享受したために、一方には苦しむ民百姓も多くいました。
 高句麗9代王故国川王(コグクチョンワン)の治世。堂々とした体格の、勇猛で聡明な王でしたが、
王后の親戚たちが権力を握り、横暴な振る舞いをしていました。彼らの息子たちまでもいばりちらし、人の財産を奪い、人の子女を奴隷にしたりもしたのです。

 王は2度とこんなことがおこらないように広く人材を求め優れた人物を採用することにしました。
鴨緑谷(アムノクコル)佐勿村(チャムル)というところに乙巴素(ウルパソ)という人がいました。彼は、高潔で優れた頭脳を持ち主でしたが、世に認められずに、畑を耕しながらひっそりと暮らしていました。
故国川王(コグクチョンワン)は乙巴素を丁重に招き、中外大夫という官位を与え、国のために尽くすように頼みました。乙巴素は王を助け国を立て直したいと思いましたが、中外大夫という低い官位では乱れた国を立て直すのは難しいと判断して、王に言いました。

 高句麗(コグリョ)はもともと、桂婁部(ケルブ)消奴部(ソノブ)絶奴部(チョルノブ)順奴部(スンノブ)灌奴部(カンノブ)という5つの部族から成っていました。各部が自治権を持ち、独自の外交を行っていたため、王さまといっても部族の代表といった程度の力しかありませんでした。これでは強大国にはなりえませんし、中国の漢王朝の支配から領地を取り戻すのも大変です。しかし、桂婁部出身の太祖王(テジョワン)5つの部族をまとめ古代国家体制を整えました。


魏は将軍毌丘倹(カンキュウケン)を派遣して3度、高句麗侵攻をくわだてました。2回目の244年、集安の丸都城を陥落させましたが、山川(サンサン)王の子東川(トンチョン)王は妻子をつれて脱出し助かりました。翌年、毌丘倹は再び侵入し、王を追わせましたが、東川(トンチョン)王は逃げのび平壌(ピョンヤン)で再興を期しました。魏朝には本拠から遠い高句麗領を長期にわたって維持する力はなかったのです。

高句麗、漢の四郡を攻める

こうして名宰相乙巴素は、高句麗を平和で豊かな、そして秩序と正義の国に変えていきました。彼は故国川王(コグクチョンワン)の次の山上王(サンサンワン)の治世にも引き続き国政を受け持ちましたが203年に亡くなりました。民はみな、親を失った子供のように長い間悲しみに暮れたといいます。

春~秋、国の穀物を分け与える

秋の収穫後、国に返済




ちょこっと豆知識~『5部族統合』

中国は魏の曹操(ソウソウ)呉の孫権(ソンケン)、蜀劉備(リュウビ)が活躍した三国時代でしたが、魏は中国の中心部を押さえると、公孫氏を討伐し同時に楽浪(アクナン)郡、帯方(テバン)郡を確保しました。ここに魏と高句麗は境を接することになり両者の抗争がはじまりました。



ちょこっと豆知識~『遷都』