前漢王朝の中国勢力(玄菟郡など)と高句麗とは敵対関係にありましたが、共倒れにならないよう、高句麗の君主は前漢朝の臣下になることによって中国勢力と共存していこうと考えました。それで、高句麗から前漢朝への朝貢がなされました。そして前漢の皇帝は高句麗の君主に、中国の皇族の親族と同列に扱う「高句麗王」の称号を授けたのです。
 ところが、紀元8年に
王莽(オウモウ)が前漢を滅ぼして「(シン)」という王朝を興しました。王莽は君主の扱いを下げて「高句麗王」を「高句麗候」にしたばかりではなく、自分の命令に従わなかったという理由で軍勢を送って高句麗君主を討たせ、「高句麗」を(サゲス)んで「下句麗」に改めたのです。王莽は遠方の異民族の土地を直接支配するだけの力を持たなかったので、高句麗は存続させましたが、次の高句麗の君主に「下句麗」の名前で新朝に朝貢するように命じました。
 この後、25年に
光武帝(コウブテイ)が新朝を倒して後漢朝を興しました。そしてその光武帝は32年に「下句麗候」を「高句麗王」に改めましたが、王莽に敗北したことは、高句麗王家にとって末代までの屈辱でした。

高句麗の大武神王の息子、好童王子は狩りに出かけ、楽浪のお姫さまと出会いました。
ふたりは、すぐにお互いが一目ぼれし、結婚の約束を交わしました。

当時楽浪には、外敵が侵入してくると、ひとりでに鳴り出す
自鳴鼓(チャミョンゴ)』という不思議な太鼓がありました。それは楽浪の大切な宝でした。この自鳴鼓のせいで、高句麗の楽浪攻めはことごとく失敗していました。

楽浪のお姫さまは一睡もできずに
悩みました

悩みぬいた結果、お姫さまは自鳴鼓の皮を引き裂いたのです。それは、祖国と父親を裏切ることでした。

 話は3つの建国神話より少し前に戻ります。(カン)武帝(ブテイ)が『
四郡
』を置いて朝鮮半島を支配しましたが、高句麗族
古朝鮮の領地をとりかえすべく漢の四郡を攻め続けました。
 そして、紀元前82年臨屯(イムドン)郡と真番(チンボン)郡を追い出し、紀元前75年には玄菟(ヒョンド)郡を遼東地方にまで追いやったのです。

高句麗、漢の四郡を攻める

紀元32年、高句麗の3代目王「大武神王(テムシンワン)」の息子、好童(ホドン)王子は楽浪を攻めて一部の地域を取り返しました。これは、その時のお話です。



ちょこっと豆知識~『高句麗の屈辱』

中国 漢の支配を退け古朝鮮の領地を取り戻すのは高句麗王の悲願でした。
あの太鼓をなんとかしなければ…』と大武神王(テムシンワン)は思案していました。
そんな父王の想いを知った好童(ホドン)王子は、楽浪(アクナン)の姫に頼みました。
あの自鳴鼓の皮を破いてくれないか

その夜、高句麗軍は一気に楽浪に攻め入りました。皮を引き裂かれた自鳴鼓はなりませんでした。高句麗軍は
楽浪の一部を占領
することに成功したのです。お姫さまの裏切りを知った楽浪の王は、激怒のあまり最愛の娘を斬り
殺してしまいました。


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 これ以後、中国人の勢力高句麗族とは、領地をめぐって激しいせめぎあいを続けます。そして、その争いのなか
から高句麗族を束ねる高句麗王家が誕生します。ですが、中国勢力を退けることを最大の使命とするリーダー(高句麗王)が誕生しても、楽浪(アクナン)だけはなかなか退けることができないでいました。