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百済の建国神話

 遼河(ヨハ)地方で興った扶余(プヨ)の王、解夫婁(ヘブル)は年老いるまで息子がありませんでした。解夫婁は男の子を授けて下さいと毎日祈りました。ある日のこと、解夫婁が馬に乗って池のほとりにさしかかった時、急に馬が歩みを止め、道端の岩を見て涙を流しました。

 韓国の歴史上、気性と団結力が最も秀でており、満州(中国東北地方)一帯と韓半島を合わせた広い領土を持ち、勇壮な気性を誇った高句麗の始祖、高朱蒙東扶余(トンプヨ)で生まれました。

BC37年 高朱蒙(コジュモン) 高句麗(コグリョ)を建国

高句麗の建国神話

 紀元前69年のある日。その日も6人の部族長たちはどのようにして王を選ぶか会議をして
いました。部族長の一人がふと見ると、不思議なことが起きていました。ナジョンという泉の
ほとりに雪のように白い馬が腹ばいになって鳴いていて、空から神秘的な光が差し込んできて、その馬を照らしているのです。
 不思議に思って近づいてみると、馬は空に昇ってしまい、その場所には大きな卵が一つ
残されていました。部族長たちが用心しながら卵を割ってみると、玉のような男の子が
現れました

 部族長たちはとても喜んで、川辺につれていって洗ってやりました。そうするとその赤ちゃんの体が光り輝き、鳥や動物たちは踊り始め、太陽と月はさらに明るく輝きだしました。
「これは、天が授けて下さった王子様にちがいない」

 ところが、弥鄒忽は土地がじめじめしていて、水が塩辛く、とても生活できるところではなかったので、人々は一人二人と慰礼城に帰り始めました。沸流も慰礼城に行ってみました。「十済は国らしくなってきた。人々も平安に暮らしているようだし…」
沸流は落胆し、死んでしまいました。
その後、沸流の民も合わさって、十済の勢力は大きくなりました。これをみた温祚は、多くの民が喜んで楽しく暮らしているので、国の名前を百済(ペクチェ)と改めました。そして
温祚王は王位にあった46年間に領土を大きく広げました。

百済を建てた温祚王は高句麗の始祖、朱蒙の息子です。朱蒙が東扶余から脱出し、卒本に到着した時、卒本扶余の王には3人の娘がいました。王は朱蒙をひと目見て普通の人間でないことを見抜き、2番目の娘を与え、婿として迎えました

 朱蒙は卒本(チョルボン)にたどり着きました。土地が肥えていて、川と山に囲まれた天然の要塞であり、国を建てるのにぴったりの場所でした。紀元前37年、そこに高句麗を建て、自分の姓を()氏と定めました。朱蒙は国を建てた後、付近の多くの国を征服し、国土を広げました
紀元前19年、高句麗建国19年に、成人した息子の瑠璃(ユリ)が父を尋ねてきました。朱蒙は40歳になった年にその短い人生を終え、その後を瑠璃が継ぎました。瑠璃王は父に東明聖王(トンミョンソンワン)の名をおくり、たたえました。

しばらくして柳花は、五升ほどもある大きな卵を一つ生みました。その卵を犬や豚に投げてやったところ、食べるどころか恐る恐る避けて、牛や馬も遠巻きにしてみているだけです。野原にころがしてやると、鳥たちが飛んできて羽で卵をなで始めました。くちばしでつついて割ろうとしましたが、硬くてひびさえ入りません。しかし、柳花がやわらかい布で卵を包んで暖かいところにおいて何日間かすると、
やがて解夫婁の後をついで、金蛙が王になりました
金蛙王はある日狩りに出て、太白山(テペクサン)の南の川のほとりで、美しい少女と出会いました。彼女は泣いていました。王が泣いている理由を優しくたずねると、少女は答えました。「松花江(ソンファガン)を守る神、河伯(ハペク)の娘で柳花(ユファ)と申します。野原に出て遊んでいたら天の息子だという解慕瀬(ヘモス)という青年が現れて、私を誘惑し、鴨緑江(アムノッカン)のほとりの家に連れて行きました。そうして身ごもらせたあと、どこかに消えてしまいました。それを知った父と母は怒って私を家から追い出しました。」
 金蛙王は彼女を宮殿につれて帰りました。帰る途中不思議なことに、日の光が彼女の後を追って来て照らすのでした

 一方、金蛙王には7人の王子がいました。しかし彼らは勉強や武術、知恵などにおいて朱蒙にはかないませんでした。王位を奪われるのを恐れた王子たちは朱蒙を殺そうと狙い始めました。危険を感じた母、柳花は朱蒙に逃げるように言いました。 この時朱蒙は22歳。彼はすでに妻を迎え、夫人はおなかに子供を宿していましたが、3人の供だけを連れて東扶余を出ることにしました。その子が後に高句麗の二代目の王である瑠璃王(ユリワン)となります。

不思議に思って部下たちに岩をどけさせてみると、その下から黄色い蛙のようなかっこうをして、ニコニコ笑っている男の子が現れました。王は喜びの声を上げました。『祈りを聞いて天が授けてくれたのだ!』

辰韓ではひょうたんのことをといったそうです。6人の部族長たちは、ひょうたんのような卵から生まれたこの赤ちゃんの姓を(パク)とし、
世の中を明るく治めることを願って赫居世と名づけました。この赤ちゃんが新羅の始祖です。

 紀元前57年赫居世は13歳で王になり国の名前を徐羅伐(ソラボル)、首都は錦城(クムソン)と呼ぶことにしました。
この徐羅伐が約500年後に「新羅」と名前を替えます。朴赫居世は国をよく治め、西暦4年に亡くなりました。

古朝鮮滅亡後、多くの国が出現!

 
 今年の4月からBSで韓国ドラマ『朱蒙』が始まりました。

 朱蒙…ソン・イルグク
 ソソノ…ハン・ヘジン
 ユファ…オ・ヨンス
 金蛙…チョン・グァンリョル
 解慕瀬…ホ・ジュノ
         というキャストで放送!

 脚本 :チェ・ワンギュ「オールイン 運命の愛」、
      チョン・ヒョンス「チェオクの剣」

BC18年 温祚(オンジョ) 百済(ペクチェ)を建国


 朱蒙一行は馬を走らせ、東扶余を後にしました。これを知った兵士たちはすぐに後を追います。朱蒙たちは必死の勢いで逃げましたが、前に淹淲湖(オモホ)(今の鴨緑江(アムノッカン)の北側)が横たわっていました。そこで 「私は天の息子、解慕瀬(ヘモス)の息子で、松花江(ソンファガン)を治める河伯(ハペク)の孫にあたる者だ。河を越えたいのだが橋が無い。兵士たちが追ってくる。助けを請う。」
と祈ると、無数のスッポンと魚たちが体を寄せ集めて橋をつくってくれました。朱蒙たち一行が無事に渡り終えると、魚たちは水の中に戻ってしまい、追っ手たちはなすすべがありませんでした。

元気な男の子が卵を割ってうまれてきました。この年が紀元前58年で、この赤ちゃんが後に
高句麗の始祖となる高朱蒙です。赤ちゃんはすくすくと育ち、周囲の人々を驚かせました。大変丈夫で、人並みはずれて頭が良く、そのうえ7歳になると弓を作り、矢を射ると百発百中でした。その頃、弓の名人のことをチュモンと呼んでいました。それで彼の名前は朱蒙(チュモン)となったのです。

辰韓(チナン)は6つの部族が一つにまとまって、仲良く国を治めていました。しかし6つの部族を統率する王がいませんでした。6つの部族
の長たちは、自分たちをまとめひっぱっていってくれる王が現れるのを待っていました
 滅亡した古朝鮮の遺民は方々に移住しました。それに伴い、満州や朝鮮半島
には広く鉄器文化が普及しました。鉄で作られた丈夫な農機具の出現は収穫量
を向上させ、鉄の武器の出現は部族間の領土争いを一層激しいものにしました。
先進の鉄の武器を用いる強い部族は周辺の弱小部族を次々と統合して、
大きな国を築いていきました。

 
こうして朝鮮半島一帯にはいくつもの国が出現します。
満州の松花江(ソンファガン)の一帯に扶余(プヨ)鴨緑江(アムノッガン)河畔には高句麗(コグリョ)平壌(ピョンヤン)の北の方には沃沮(オクジョ)
元山
(ウォンザン)
付近には東濊(トンイエ)、そして漢江(ハンガン)の南へもたくさんの遺民が大挙して移動しました。

彼らは寒い満州の荒野から、暖かい南の方を目指して行きました。彼らは漢江(ハンガン)の近くまで南下しました。そこは、ひと目で素晴らしい土地であることが分かりました。
『お兄さん、ここに家を建て、国を作っていきましょう』
弟の温祚は、慰礼城(ウィレソン)(今のソウル)に都を定め、国を十済(シプチェ)と名づけました。
紀元前18年のことです。 
温祚の誘いを断った沸流は彼につき従ってきた人々を連れて、もっと広く交通の便のよさそうな
弥鄒忽(ミチュホル)(今の仁川(インチョン))に都を定めました。

朱蒙とその妻の間には沸流(ピリョ)温祚(オンジョ)という2人の息子が生まれました。瑠璃(ユリ)王とは腹違いの兄弟です。瑠璃が跡継ぎに決まると、沸流と温祚は10余命の家臣をひきつれて高句麗を出て、南の方に下がっていきました。たくさんの民が彼らの後に従いました。

解夫婁はその子を連れて帰り、金の蛙という意味の『金蛙(クムワ)と名づけ、大切に育てました。解夫婁は松花江(ソンファガン)の近くの迦葉原(カヨプウォン)に都をおき、国を東扶余(トンプヨ)としました

BC57年 朴赫居世(パクヒョッコセ) 新羅(シルラ)を建国

新羅の建国神話

 朝鮮半島の南には古朝鮮(コチュシン)の時代から、多部族連盟体の(チン)がありました。発達した鉄器文化を持った古朝鮮の遺民
たちは、すぐに辰国の人々と融合し、やがて馬韓(マハン)辰韓(チナン)弁韓(ビョオナン)弁辰(ビョンジン))の三韓(サマン)を興しました。