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古朝鮮の滅亡
 この頃の中国は前漢の全盛期、太陽王と呼ばれた武帝(ブテイ)の時代です。領土を大きく広げ、東西交通の道を開いた
王様です。そんな漢が衛満朝鮮を放っておくわけがないですね。紀元前109年、漢は5万人の大軍で攻めてきました。
しかし衛満朝鮮も負けてはいません。両者の間で一進一退の戦いを繰り広げたのです。
<ひとくちメモ>

一般に檀君(ダンクン)朝鮮、箕子(キジャ)朝鮮、衛満(ウィマン)朝鮮
を一括して【古朝鮮(コチョソン)】といいます。

<ひとくちメモ>

壇君朝鮮と箕子朝鮮は、神話
および伝説時代ですが、
衛満朝鮮からは明らかに史実です。

 翌年、漢の武帝は衛満朝鮮の大臣たちを買収し、右渠王を暗殺させました。しかし、
大臣の成己(ソンギ)
は王城を死守し漢の大軍に徹底抗戦しましたが、やはり内応者によって暗殺されました。

 これによって、古朝鮮は滅亡しました。これ以後、漢は衛満朝鮮の故地に楽浪(アクナン)真番(チンボン)臨屯(イムドン)玄菟(ヒョント)の4郡を設置して支配しました。

衛満朝鮮は、中国の発達した鉄器文化を積極的に取り入れたので農業や武器の生産を中心とする手工業が発達しました。また、商業や貿易も発達しました。さらに、各地の征服にも積極果敢に取り組んで、満州一帯と朝鮮半島にまでその領土を広げました。また、3代目の右渠王(ウゴワン)は漢に対抗して服属しないばかりか、その周辺国が漢に朝貢、交易することを妨げました。


衛満(ウィマン)は古朝鮮の準王(チュンワン)の信任を得て西側の国境守備隊長となり、その地で力を蓄えると紀元前194年に準王を追放して国王となりました。衛満は王になった後も古朝鮮の国号や法律、文化、慣習を変えることなくそのまま維持しました。こんなことから、衛満は燕の国で暮らしていた古朝鮮人であったという考えもあるそうです。

ここでは少し中国の歴史のお話を!
中国では、紀元前221年に(シン)始皇帝(シコウテイ)が中国を統一するまで秦、(エン)(チョウ)(セイ)()(ハン)()という7つの国が覇権を競う戦国時代でした。

紀元前202年には秦に代わる統一王朝として
(カン)が出現しました。秦と漢の中国統一の過程でたくさんの燕の国の人たちが古朝鮮に亡命したのです。衛満はそのリーダーでした。

檀君朝鮮朝鮮半島出自の建国神話だとすれば、箕子朝鮮大陸出自の建国神話です。
「箕子」は中国の(イン)王朝の王族で、甥の紂王(チュウオウ)の暴政を諌めた賢人でした。殷の滅亡後、周王朝の武王(ブオウ)は箕子を崇めて、家臣とはしないで朝鮮の地を治めさせました。朝鮮侯となった箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広めたそうです。