高句麗、漢の四郡を攻める

◆13等から成る官位を整備 → 貴族層が王の指導力の下におかれることになり、貴族
                    たちは手柄をたてて高い官位を得ようと競いあいました。
◆302年…3万の兵を率いて玄菟郡を攻め、8千の捕虜を捕らえ平壌に連れ帰りました。
◆313年…楽浪郡を攻め滅ぼし、男女2千人あまりを捕虜にして連れ帰りました。
◆314年…帯方郡を攻め滅ぼす
◆315年…再び玄菟郡を攻め、ついに滅ぼす


一方、烽上(ポンサン)王は暴政のために民の支持を失い、覚悟を決めた国相の倉助利(チャンヂョリ)によって廃位、追放されます。
 塩商人の乙弗は倉助利によって探し出されますが、逃亡生活を続けていた彼はなかなか身分を明かさなかったのです。

 高句麗第14代王烽上(ポンサン)王は生来猜疑心が強く、心を許す臣がいませんでした。弟の咄固(トルゴ)でさえ信用できず、反逆の罪を抱いてるとして殺してしまいました

ちょこっと豆知識~『この頃の中国は』


 中国では三国志で有名な曹操(ソウソウ)が起こした「()」が滅び西晋(セイシン)が中国全土を統一しました。しかし、西晋は発足当初から腐敗していたのです。後宮(日本でいう大奥)には1万人を越す美女が置かれ、その過度の女色が原因で皇帝が没したり、大飢饉のときに「民は米がないなら何で肉を食わんのだ?」と言った暗君がいたり皇族同士で何年にも渡って権力闘争の殺し合いを繰り広げたり…。当然!西晋王朝の統率力は弱まっていきました。

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こうして美川王は、古朝鮮が滅んでから3百数十年かかって
ようやく韓半島を韓民族の手に取り戻したのです。
その後二度と異民族の直接支配領は生まれませんでした。
そして、漢の支配領「漢四郡」が滅ぶと、高句麗百済新羅の国境線はじかに接し、互いに牽制しながら覇を競い合った
三国時代
へと向かいました。


美川(ミチョン)王は 300年に即位した後こんなことをしました。

咄固(トルゴ)の息子の乙弗(ウルブル)、さいわい逃げ延びて命は助かりましたが、以後、身分を偽って金持ちの家に住み込み、下働きの生活を続けることになりました。
 やがて商売を覚えた乙弗は
鴨緑江(アムノッカン)河畔で塩商人となります。

そんな乙弗(ウルブル)倉助利(チャンジョリ)は説き伏せて王に迎えました。彼が第15代高句麗王、美川(ミチョン)です。