敵が去った後、故国原王は集安の丸都城に戻りましたが、前燕と正面から戦うだけの兵力がなかったので慕容氏に使者を送り、贈り物を届け忠誠を誓いました。そのため、翌年に美川王の遺骸は返されましたが、王母は13年後になって
漢民族以外の異民族が中国北部に次々と建国した中に、「燕」という国がありました。慕容皝という人が遼東郡を占領して建国しました。慕容氏の政権は途中でいったん滅び、後に再興されたので、最初の王朝を「前燕」、後に再興された王朝を「後燕」といいます。
後に百済との戦いで戦死した故国原王の治世に、高句麗はこの前燕、慕容皝の軍に攻められ首都の丸都城を陥とされました。故国原王は都を捨てて逃れたので、命は助かった
機会をうかがっていた百済は、371年に3万の軍勢を率い、兄弟国高句麗を攻撃しました。百済軍は高句麗領に深く進入し、平壌で高句麗の主力と衝突しました。百済軍は太子須が前線に立って指揮し、、高句麗軍は故国原王が自ら先頭に立って戦いました。この時、故国原王が、広開土王のように上手に騎兵を指揮できれば、高句麗優位の戦いになったことでしょうが、故国原王は貴族層にあまり人気がなかったので高句麗の戦意は低かったのです。
こうして百済は領地を拡大し強大な国になりました。近肖古王は371年に漢山(現在のソウル)に壮大な王都を築きました。そこは中国の王都のあり方にならい、王宮のそばに商工民の集まる町でした。近肖古王は政治、経済、社会、文化などの各方面に優れた政策を打ち出し、国の基礎をしっかりと築いていきました。このころ仏教も伝来しました。
百済の13代王、近肖古王は346年~375年までの30年もの間、百済を治めました。彼は百済を最強に、そして華麗な文化を誇る国にした王でした。
のですが、丸都城の城壁は打ち壊され、男女5万人余人を捕虜として連れ去られました。
またこの時、王母と王妃たちも前燕に捕われ、王の父「美川王」の墓があばかれその
ようやく解放されたのです。、これ以後、高句麗は前燕、後燕などの五胡十六国の国々の鼻息をうかがい続けるしかあり
ませんでした。
中国の東晋とは、陸路ではなく海路を用いて交流しながら先進文化を吸収していました。また、加耶の西端部が百済領にくみ入れられたことによって百済は朝鮮半島南岸に港を得ることになりましたので、海を渡って大和朝廷と同盟を結び、倭国に軍事的に助けてもらう代わりに、阿直岐と王仁のような学者を派遣し百済のすすんだ文化を日本に伝えたのです。また近肖古王は、高興博士に百済の歴史『書記』を書かせました。
中国の西晋の後退をきっかけに、4世紀初め、東アジアに多様な新勢力が出現しました。中国の北部では匈奴や鮮卑など漢民族とは異なる民族が次々に王朝を建て、西晋の生き残りの皇族が南部で漢民族の王朝である東晋を建てました(五胡十六国時代)。そして、東方の高句麗は大きく成長し、その高句麗の圧力に対抗する形で百済と新羅が成長しました。
3世紀に朝鮮半島の南部にあった馬韓のひとつの小さな国が4世紀に漢城に都を構え、馬韓を統一して百済になりました。また、辰韓にあった一小国も慶州に都をおき、辰韓を統一して新羅となりました。日本の大和朝廷も4世紀初めに、その領域を広げ、さかんに加耶と交易を行いました。
百済の兵たちの士気は、天をも突くばかりでした。百済軍の弓矢隊は次から次へと
敵方の指揮官をめがけて矢を放ちます。とうとう高句麗軍は後退し始めました。その時
矢が高句麗王に命中しました。これを知った高句麗軍は散り散りに逃げ始めました。
「よし!高句麗の王が死んだぞ!このまま押しまくれ」 太子は叫びました。
しかし将軍に止められました。
「太子殿下、高句麗の王は死にました。ここはひとまずこれに満足して攻撃を止めることにいたしましょう」
太子はその言葉を聞き入れ、そこに戦勝の稗を立てて軍をひきあげました。
その頃、高句麗は満州平原を領土にする夢を持って中国勢と小競合いを繰り返しながら、百済を牽制していました。一方、辰韓地方を統一した新羅は、領土を北の方に拡張しようと機会をうかがっていました。近肖古王は、高句麗と新羅を自由に動けないよう押さえつけながら、領土を拡大し、南の馬韓全域を統合しました。
そして、太子須を伴い、騎馬隊、歩兵隊、弓矢隊、槍隊などの訓練を行い、
最強の軍隊を作っていきました。