ちょこっと豆知識



気の小さい指揮官だったら、慌てて軍を返していたかもしれません。そうすると、南の倭・百済連合軍と西の後燕軍の
2方向からの攻撃にさらされることになります。26才の談徳は冷静に状況判断し、最善の策をとったのでした

昔、中国の歴代王朝と中国周辺の国々との間では朝貢(チョウコウ)という国際関係がとられていました。自国を世界最高の文化をもつとしていた中国は、文化の低い周辺諸国の君主は、中国の皇帝に従うべきだと考えていたのです。そのため、歴代の中国皇帝は、周辺諸国に使者や軍勢を送り、そこの君主に皇帝に対してささげ物をするように命じました。このささげ物をすることを『朝貢』といいます。

談徳は、昔、檀君が興した古朝鮮の領地に暮らす民は全て
檀君の民だと考えていました。ですから
『檀君の民どうしが争うことはない。我らが敵は檀君の領地を侵す中国や倭だ』そう考えていたのです。

新羅からの使者

降伏したはずの阿莘王でしたが、まだあきらめてはいませんでした。密かに、倭に自分の息子を人質に差し出し、総力での援軍を求めたのです。

この時期の中国北部は16の国が興亡した混乱期、五胡十六国時代。後燕は北魏や後秦という国との覇権をかけた戦いの最中でした。高句麗に手を出していられない状況でしたが、後燕の辺地を守る軍の指揮官はしきりに国境地帯に侵入して略奪などを行っていました。



ちょこっと豆知識~『朝貢』

談徳は25才になっていました。そして談徳の周りには、同年代くらいの気心の知れた
信頼できる指揮官が育っていました。
この粛慎出兵では、談徳は国内城(丸都城)に残って政治にあたり、自分の片腕の
将軍を粛慎に送りました

多くの集落は、高句麗の大軍を見ただけで降伏し、武力で反抗した者は簡単に打ち破られました。


ちょこっと豆知識~『この時期の後燕』

400年

英雄 広開土大王(談徳)

談徳は、辺地の城の1つや2つを取られても、北魏や後秦とも争っている後燕には一気に
丸都城まで攻め入る余裕はないとよみました。南の敵、倭と百済を二度と高句麗に反抗
 できないようにしておけば軍を返して後燕
 を討てる。
 談徳はこのように決断しました。

阿莘(アシン)

阿莘(アシン)王が降伏したことで、南方の心配がなくなった談徳は
いよいよ遼東半島
奪回の為、後燕(コウエン)との本格的な戦いの準備に
入りました。
この頃まだ私兵の寄せ集めにすぎなかった高句麗軍を中国の強力な軍と互角の戦いができるまでに訓練したのです。


談徳は加耶から百済に入りました。百済の阿莘(アシン)は大急ぎで使者を送り、忠誠を誓いました。

この戦いの後、倭の新羅に対する大掛かりな攻撃はなくなりました。
談徳の勇敢な戦いぶりが倭人を恐れさせたのです。
談徳は高句麗史上唯一、朝鮮半島南部まで進撃した王様でした。

談徳は倭・百済連合軍を新羅から追い出し後、加耶諸国の中の安羅という国に向かいました。倭軍はいつも北九州から壱岐対馬を経て安羅に渡ってきていたのです。安羅が新羅に従えば、倭が百済と連携しずらくなると談徳は考えました。

高句麗軍は、何度も勝利をもたらした談徳につよい信頼をよせていました。後燕の攻撃の知らせに揺らぐことなく、怒涛のごとく新羅国内の倭・百済連合軍に
襲いかかり、たちまち追い出してしまいました。

高句麗軍は鉄の甲冑(カッチュウ)を着けた騎兵を主体としていました。敵の飛び道具から馬を守るため、人間だけでなく馬にも鎧をつけました。騎兵と馬が装着した鎧は100個あまりの鉄の板をつないで作ったもので、敵の矢をはねかえすように設計されました。また馬の鞍に青銅や鉄で作った鎧を垂らして足を乗せられるようにしました。このおかげで、長時間にわたり馬上で弓などの武器を、自由自在に扱うことができました。

こうして、談徳は自ら5万の軍を率いて新羅を助けるべく南下しました。

後燕王 慕容盛(ボヨウセイ)

談徳は高句麗、百済、新羅が互いに他者の領域を侵さずに協調していくことを望んでいました。

大帝国建設の大きな夢を抱いた 談徳はまず、百済を攻めました。

398年

大帝国建設の大きな夢を抱いた 談徳はまず、百済を攻めました。

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ところが、新羅にいる談徳に思わぬ急報がもたらされました。

この後404年、自ら高句麗と戦う勇気が無い阿莘王は、倭の軍勢に高句麗領(元帯方郡)に侵入させました。談徳はこの時は自ら戦いの指揮をとらず親衛軍の精兵を送りました。そして倭軍を徹底的に壊滅させたのです。

405年、宿敵
阿莘王は没しました。その後、倭に人質に出されていた息子が百済王になったのですが、彼は消極的な
性格でしたので強大な高句麗と戦おうとは思いませんでした。その為、このあとしばらくは高句麗と百済の友好関係が続くことになり、朝鮮半島の住民はつかの間の平和を楽しむことができたのです。

百済 阿莘

新羅に援軍をだしている間に、
後燕に攻められては国が危ない。
そう考えた談徳は後燕に使者と
貢物を送り和睦を求めました。