ちょこっと豆知識


阿莘(アシン)王は
降伏しました

百済の阿莘(アシン)は度重なる失敗に懲りず、無益な出兵を繰り返しました。コレに対して永楽(ヨンナク)王(談徳(タムドク))は百済軍の動きの先を読み、最善の策で迎え撃ちました。
どんどん国内の評判を落としていく阿莘王は焦り、百済軍を自ら率いて総力を挙げて北上しました。
ところが冬だったため大雪で進行を
阻まれたあげく、仕方なく引き上げ
ている途中にも多くの餓死者や
凍死者
を出しました。

だからこそ、今回の戦いで占領した土地を気前よく百済に返したのです。

に総攻撃をかける準備を進めていることを知った談徳(タムドク)水軍の先鋭で南下して百済に先制攻撃を仕掛けました。
当時の軍船は、馬を乗せて移動できる大型のものでした。
漢江(ハンガン)の河口で船を降りた高句麗軍の騎馬隊は、疾風のごとく駆けて58カ所の城を次々と陥とし、700の村落を従わせました。
あっという間に
漢江流域と(ハン)城周辺を占領した高句麗軍は、阿莘(アシン)王のいる漢城に迫りました。

百済の阿莘(アシン)王が、百済・倭連合軍を組織して高句麗

大帝国建設の大きな夢を抱いた 談徳はまず、百済を攻めました。

4世紀の日本のことを記す確実な文献がないので、この時代の日本の具体的な状況はわからないそうですが…大和朝廷の時代で百済とは同盟を結んでいました。百済のすすんだ文化をわけてもらうかわりに軍事的に助ける約束をしていたのです。

阿莘王は、海の向こうの倭に
援軍を求めました。

この遠征は連戦連勝!

高句麗の勢力圏は拡大しました。

大帝国建設の大きな夢を抱いた 談徳はまず、百済を攻めました。

396年8月

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英雄 広開土大王(談徳)

百済(ペクチェ)談徳(タムドク)の祖父、故国原王(コググォンワン)のカタキでした。
しかし、降伏してこれからの服従を誓ったのだから、過去を忘れて、今後は自分たちと同じ民族の流れをひく同胞として扱おうと談徳は考えたのです。


395年