ちょこっと豆知識

談徳が生まれる前の世の中

391年

7月

大帝国建設の大きな夢を抱いた 談徳はまず、百済を攻めました。
この国を建国した朱蒙王は天孫であり、我が高句麗は まさに天孫の国なのです。 檀君朝鮮の土地を継承する天孫の国を建て、すべての 民が永く幸せに、豊かに暮らせる新たな時代を 切り開くことを誓います!
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大帝国建設の大きな夢を抱いた 談徳はまず、百済を攻めました。

勇武を重んじるが、
知略にかけていたので、考えなしに力攻めだけ
をする指揮官






攻撃に適した好機に
進み、味方に利のない
ときには迷わず退く
戦略家






VS

今回の談徳の攻撃目標は、四方を切り立った崖と海に囲まれている難攻不落の関弥(クァンミ)です。
海上交通を押さえる要地にありました。

この時百済の兵たちは、高句麗軍を実際の人数をはるかに越える大軍だと思いこんだので最初から戦意は衰えていました。彼らは城を守って、漢城からの援軍を待ちました。ところが、いくら待っても援軍は来ませんでした。


英雄 広開土大王(談徳)

阿莘王辰斯(シンシ)王とはちがい、高句麗に積極的に反撃を繰り返しました。その為、関弥(クァンミ)城落城以後も2国の間で
小競合いが続き
ましたが、そのたびに高句麗は百済軍を撃退しました。

百済は辰斯王の甥の阿莘王が王位を継ぎました

大帝国建設の大きな夢を抱いた 談徳はまず、百済を攻めました。

百済(ペクチェ)領に急襲し、砺峴(ソウォキョオン)城などの10箇所余りの城を攻め落としました。
当時の百済王は辰斯(シンシ)王でした。王は聡明で勇敢でしたが、本拠地の(ハン)城を出て戦おうとはしなかったのです。
高句麗王が即位してすぐに攻めてくるとは考えていませんでしたし、当時の百済は高句麗より国力が上だったので、後で簡単に失地を取り返せると思っていたのでした。

でも、その判断が2国の優位関係を変えてしまったのです。
百済に勝利したことで、高句麗国内における談徳の評判が急速に高まり、高句麗の士気をいっきに高めたのでした。

392年

談徳は、遼東郡より西の土地は中国の領土であるから、それ以上は奪ってはならないと考えていました。中国の王朝を倒して自らが大陸の王になろうという野望はなかったのです。
檀君(タングン)朝鮮の領地であり、中国との係争地であった遼東郡を取り戻し、その地が安定すれば、それで十分だったのです。
その為に、後燕(コウエン)契丹(キッタン)は討っておく必要がありました。

9月、談徳は全兵力で契丹の領域に侵入しました。騎兵を急がせて後燕の勢力圏である契丹に素早く侵入し、短期間で勝利をおさめました。そして、後燕の強力な騎兵が出てくる前に退却したのです。この時、談徳は前々から契丹に捕われていた高句麗の民衆1万人を取り戻し、契丹の男女5百人を捕虜にしました。
契丹に勝利したことで、またも談徳の評判は高まりました。


   ※ 黄色は国王のみに許された色だそうです。
   ※ 天孫=天の神の子孫
談徳(タムドク)は全ての民が永く幸せに楽しく暮らせるようにという想いもこめて「永楽(ヨンナク)」という独自の年号を用い、中国との対等な立場をアピールしました。

百済 阿莘(アシン)

高句麗 永楽(ヨンナク)
         (談徳)

百済(ペクチェ)辰斯(シンシ)王は談徳(タムドク)が戦略に秀でていると聞き、(ハン)城を出て戦う事を回避…つまり、関弥(クァンミ)城を見殺しにしたのです。
関弥城は20日目に陥落しました。百済では、臆病な国王を攻める声が高まっていきました。そして、関弥城落城の
1ヵ月後、辰斯王は狩りに出かけ、10日たっても帰ってきませんでした。そしてその後、謎の死をとげたのです。