408年

ちょこっと豆知識

407年

大帝国建設の大きな夢を抱いた 談徳はまず、百済を攻めました。
英雄 広開土大王(談徳)

404年11月

一方、後燕王家の慕容(ボヨウ)氏の
勢力は下降し始めていました。
高句麗に対して有効な策をとれずにいたのです。

約2年かけて十分な準備を整えた談徳は、全軍で後燕を攻撃しました。

談徳は東扶余に遠征しました。東扶余の人々は、
ほとんど戦わずに降伏しました。

大燕王 高雲

談徳は39歳の若さで亡くなりました。

軍神の生まれ変わりのように強かった。しかし無益な争いを好まず、敵との
協調を模索して、民を想い愛した談徳は、長く民族の英雄として今も慕われているのです。

412年10月


後燕はもともと遊牧民の部族長の連合政権なので、王が頼りないと貴族たちは次々と王から離れていきました。

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高雲のおじいさんは、談徳のおじいさんの故国原(コググォン)王に仕えていました。しかし前燕に
丸都城を攻められた時、捕らえられ、その後
前燕で重用されました。
高雲は武官になり、太子に気に入られて慕容(ボヨウ)家に養子に入ったのです。
高雲は高句麗の貴族の血筋なのです。

2人の有力者が慕容王に反旗を翻しました。慕容熙(ボヨウキ)は重臣によって殺され、慕容雲(ボヨウウン)が新しい王になりました。
慕容雲は慕容家の養子で、養子になる前の姓は談徳(タムドク)と同じ「()」でした。慕容雲は王位に就くと国の名前を『大燕』と改めて、王家の姓を『高』にして【高雲(コウウン)】と名乗りました。

406年12月

406年7月

後燕王は自ら精兵を率いて、2ヶ月前に談徳に取られた遼東城に迫り、城を包囲しました。
遼東城の僅かな守備兵たちは堅く守って城から撃ってでませんでした。

大帝国建設の大きな夢を抱いた 談徳はまず、百済を攻めました。

談徳は百済との国境近くの高句麗南部を視察しました。


談徳が王になった当初、高句麗は後燕と百済の圧力に苦しめられていました。
談徳は生涯戦い続け、64の城を破り、1400の村落を従えて高句麗の繁栄と国内の平和を実現しました。そして…

   8月

談徳は王子を太子(皇太子)にたてました。 後の長寿(チャンス)

409年4月

大帝国建設の大きな夢を抱いた 談徳はまず、百済を攻めました。

王になった高雲がいくら高句麗の血筋だとは言え、大燕は鮮卑(センピ)族の国です。普通の王だったら、敵対しつづけたでしょう。強い高句麗軍で攻めれば、国政を握ったばかりの高雲政権は簡単に崩壊し、高句麗の領土は広がったかもしれません。しかし、談徳は無益な戦いを避け、国力が落ち目になっていた大燕との和平を実現させたのです。

高雲の血筋を知った談徳は、友好関係を築こうと考えました。

しかし、そううまくはいきませんでした。
契丹の中央部まで進んだところで、契丹軍に囲まれそうになり、早々に契丹を離れました。

しかし、手ぶらでは帰れない慕容熙は、通りかかった高句麗の木底城に総攻撃をかけることにしました。

後燕王、慕容熙(ボヨウキ)は焦っていました。
それで、契丹を攻めることにしました。
文化の遅れた契丹なら、簡単に勝てると思ったのです。

大帝国建設の大きな夢を抱いた 談徳はまず、百済を攻めました。

405年1月

こうして談徳は、太子の頃からの夢、
      古朝鮮が漢に奪われた遼東地域の奪回を成し遂げたのでした。

にも談徳は精兵を繰り出し、後燕に侵入。勢力圏を大きく広げました。

勢いのある高句麗軍は2年前に後燕に取られた土地を瞬く間に取り返し、
遼東城玄菟城、後燕の中枢部である宿軍城を得て威風堂々と引き上げました。



ちょこっと豆知識~『談徳の築いた平和』

大帝国建設の大きな夢を抱いた 談徳はまず、百済を攻めました。

高句麗全土でイナゴが大発生したのと、晴天続きで水不足とが重なり、
高句麗は近年にない不作にみまわれました。

談徳は、飢える民の姿に胸を痛めました。

城を包囲している後燕軍はしだいにたるんできました。その時、談徳の援兵
が近づいているという知らせが入りました。後燕軍はおびえ、遼東城の城兵は勢いづきました。今まで城から撃ってでなかった城兵たちが撃って出ると、
後燕軍は後退しました
一部隊が逃げ始めると、それにつられて全軍が逃げ去っていったのです。

402年5月

高雲(コウウン)大燕(ダイエン)は409年に滅びました。中国北部は長い間、5つの異民族と漢民族の一部によって16の国家が興亡する
混乱した状態が続いていましたが、【北魏(ホクギ)】という国が興り中国北部を統一したのです。その後も短命政権が続き中国北部の王朝(北朝)は短期間に入れ替わりましたが、高句麗との友好関係は続けられました。高句麗はこの後も歴代の北朝に朝貢し、北朝の諸王朝は高句麗のもつ遼東郡を侵すことはありませんでした。

高句麗王 談徳


こんな小城でも取っておけば何かの役に立つだろうと考えたのです。ところが、高句麗軍の士気はさかんで、後燕軍は
小城さえ陥とすことができませんでした。

談徳は王宮に蓄えていた穀物を気前よく、飢えた庶民に配りました。

後燕王 慕容熙(ボヨウキ)

檄を飛ばして南へ西へと駆け回る談徳の勇姿は、高句麗の人々が夢にまで描いていた姿でした。味方には百万の兵に勝る頼もしさを、敵には百万の兵を迎えるような恐怖を与えたのです。そんな王と一緒なら、兵たちは火のなか水の中にも飛び込んでいってもいいと思っていました。

410年  

後燕軍は勝利を確信していました。
なにせ相手は城の守備兵のみ。1ヶ月もすれば
精根尽き果てると思っていました。

談徳が王になった当初の高句麗